鉄道未成線 都市モノレール静清モノレール三保線とは

鉄道未成線 都市モノレール静清モノレール三保線とは

2021-08-03 0 投稿者: mjws編集

今回は静岡県清水市の鉄道未成線、都市モノレール静清モノレール三保線について紹介します。

三保の松原、そして清水港、観光地としても知られる同地域にはかつて、貨物輸送を主とする清水港線という鉄道路線が存在しました。

三保半島地域 (c)shutterstock

1944年に東海道本線から分離独立して清水港線単体となった同線は、昭和30年代には黒字路線になったこともありました。しかしながら、自家用車の普及もあり、旅客列車の衰退と合わせ清水港線も赤字路線になってしまいます。貨物輸送を主としていた清水港線は、1日7往復していた時期もありましたが、国鉄の貨物合理化の影響も受け、1984年に全線が廃線となってしまいました。

清水港線の廃線跡は、ホーム、一部車両とともに、今も現地に残されている。 photo/mjws編集室

さて、今回のテーマはほぼ同ルートで計画されていた未成線、都市モノレール静清モノレール三保線についてです。かつてこの地域で建設が検討されていた、清水駅と清水港、三保の松原付近を結ぶモノレール路線で、一種の未成線という事になります。

モノレール三保線は、国鉄清水駅前の道路上に始発駅が設けられ、本町付近で清水港線ルートから離脱、日本平入口を経由し、折戸付近で再度清水港線ルートに合流、清水港と、三保の松原の最寄りとなる真崎駅に至る、路線延長は10.6km、計14駅を24分で結ぶ路線として計画されました。

モノレール三保線のルート。ピンク色がモノレール計画路線、緑色が清水港線跡 (c)Google
清水駅前の交差点、画像中央付近がモノレール三保線の清水駅位置として考えられていた。 photo/mjws編集室

既に開業を果たした北九州モノレールとほぼ同時期に計画が立案された同ルート、かたや開業、かたや計画自体が消滅し未成線となってしまいました。

下の画像は、北九州モノレールの営業車両が日明港から陸揚げされた際の写真。余談ですが、終点の駅名が現在の企救丘ではなく、志井車庫前となっている事に時代を感じます。

三保線と同時期に計画が立案された北九州モノレール。現在も元気に営業を続けている。photo/北九州モノレール (c)北九州モノレール・mjws編集室

北九州モノレールと同時期に立案されたという事で、北九州モノレール1000形車両のカラーリングを変更したイメージを作成しました。現実に開業していたらどんな車両となっていたのでしょうか。


1970年に立ち上がった三保線の計画

なお、三保線の草案は1970年に立ち上がりました。

後1972年11月に公布・施行された、都市モノレール法にトレースする形で、1973年度には都市モノレール調査が実施される事となります。

モノレールとは皆さんのイメージ通り“鉄道”ですが、日本においては法律上道路の一部に位置付けられます。

この、モノレールは道路の一部ですよ というルールにしたのが、都市モノレール法と呼ばれる法律。

東京モノレールや湘南モノレール、都市モノレール法規格のテストベッドとなった万博モノレールまでが“鉄道”、以降、都市モノレール法制定後、北九州モノレールからは“軌道”という分類となっています。

三保線の終点「真崎駅」の想定位置。日本モノレール協会資料を参照。 photo/mjws編集室

静清モノレール三保線も、後の北九州モノレールおよびこの立案と、ほぼ同時期に立ち上がったモノレール計画です。


三保線のその後

北九州モノレールについては関係各所の尽力で1976年に運行会社を設立、1985年に小倉線開業にこぎつけましたが、静清モノレール三保線については計画段階で打ち切られる事となり、1976年以降その単語はほとんど表に出ることはなくなりました。

静清モノレール三保線と聞くと、何の妄想なのか?と考えてしまいそうですが、立案時の北九州モノレールも条件は似通ったものがあったのです。

北九州モノレールは開業、かたや静清モノレールはその存在すら忘れられていく、運命とは細い線の様なものだと改めて感じました。