「姫路モノレール 幻となった延伸計画と消えなかった存在」

「姫路モノレール 幻となった延伸計画と消えなかった存在」

2022-05-27 0 投稿者: mjws編集

昭和41(1966)年、兵庫県南西部に位置する姫路市は大きなイベントを控えていました。4月6日より6月5日まで、国宝・姫路城の「昭和の大修理」完成記念で開催される姫路大博覧会です。その第一会場は国鉄・姫路駅より西南西に位置する手柄山一帯。姫路駅前に作った仮駅から手柄山までの全長1.6㎞間を結ぶ博覧展示物のひとつとして姫路モノレールは建設され、会場への観客を輸送する使命を与えられました。正式名称はなく、説明的な名称は「姫路市交通局モノレール線」。姫路モノレールはその通称のひとつです。

姫路大博覧会の中心会場となった手柄山 photo/Adobe
手柄山駅跡地(手柄山交流ステーション)に今も展示される姫路モノレール営業車両 photo/mjws.org

しかし、ご存じのように姫路モノレールは悪夢とも思える不幸に次々と見舞われていきます。

建設を指揮したのは市の交通事情に頭を悩ませていた当時の市長・石見元秀氏です。当時、市の懸案だった山陽本線による南北間の交通の分断、また市内の自動車増加による渋滞の頻発に加えて排気ガスによる大気汚染、市電の建設や路線バスの増発もできず、地下鉄建設も市の規模や財政では難しい…しかし総じて安い建設費で済む最新鋭のモノレールはそれらの全てを一気に解消でき、さらに高架軌道を走行するため車窓の眺望も期待できます。石見市長も大乗り気でした。
そうして姫路モノレールは市民と市長の期待を乗せて、5月17日に開業しました。

石見市長は当時から壮大な延伸計画を抱いていました。まずは第1期工事で建設した姫路仮駅~手柄山駅間で十分な実績を作ったのちに姫路駅を本格整備し、南側の瀬戸内海に面する工業地帯と北側の住宅地の約8㎞を、山陽本線を跨いで結びます。さらに市内中心部に環状の路線を建設し、そこから最高時速160㎞を誇る車両の高速性能、最大12両連結が可能な輸送力を生かして日本海側の鳥取方面、舞鶴方面、また加古川方面や岡山方面へと延伸し、市を超えた都市間連絡路線、陰陽連絡路線にしていこうと考えていたのです。

現在の姫路駅周辺の様子 photo/Adobe

 しかし、開業は博覧会終了3週間前と大幅にずれ込みました。姫路駅の用地買収の遅れ、そして悪天候による建設の遅れが災いしたのです。また並走する山陽電鉄の姫路~手柄間の運賃20円だったころに100円という高額な運賃でも敬遠されます。それでも博覧会開催期間中は物珍しさから乗客が押し寄せましたが、会期終了後は手柄山に向かう人がいなくなり、客足は激減します。初年度から赤字で、市の一般会計から多額の補填を行っていました。

当時、新しい交通機関として流行の兆しを見せていたモノレールは様々な規格の路線が誕生しました。昭和42(1967)年、運輸省は跨座式モノレールの規格を統一するように求めます。規格から外れ、新規参入と採算性の維持が難しくなった日本ロッキード・モノレール社は昭和45(1970)年に事業から撤退し、会社を解散しました。同社が開発したロッキード式を採用していた姫路モノレールは部品の調達や車両の整備を自力で行うことを強いられ、さらなる財政圧迫に苦しみます。

同じくロッキード式モノレールを採用した路線としては、小田急モノレール線等が存在した。photo/mjws.org

 モノレール延伸推進派の石見市長も昭和42(1967)年の市長選挙で延伸反対派の候補に敗れました。市の財政を圧迫する大赤字路線は目の敵にされ、大幅なリストラを敢行されますが状況は好転しませんでした。この頃は国からの財政支援も法整備される前。打つ手がなくなります。

 完成した直後から市のお荷物と揶揄された姫路モノレールは昭和49(1974)年4月11日に休止、昭和54(1979)年1月26日に正式に廃止され、その役目を終えました。

しかしそれだけでは終わりません。頑丈に建設された橋脚や軌道桁の撤去には大変な費用が掛かるため、市は放置しました。そこから色が黒ずみ、錆が浮き、異様な光景へと変貌していくのです。昭和59(1984)年にはき電線が800mに渡って落下する事故が起こりました。市は撤去を急ぐ姿勢を見せますが、予算的に苦しく少しずつしか撤去できません。細切れに残った軌道跡は「現代遺跡」と命名され、鉄道好きの写真家や廃線マニアがこぞって写真に収めるようになります。

モノレール遺構として有名だった、モノレール大将軍駅のホーム。2016年8月に実施された姫路モノレール大将軍駅見学会での一コマ(現在は解体されている。) photo/mjws.org

姫路市は一時期、市の沿革にモノレール関連の記載をしませんでした。市にとって最大級の失政を無きものにしようとした姿勢がうかがえます。手柄山駅内はその入り口を木の板で封じられ、留置した車両は誰の目にも触れないように安置されました。

 時を経て平成15(2003)年。当選した新市長はJR姫路駅の高架化事業に尽力し任期中に達成しました。その市長の名前は石見利勝氏。あの石見元秀市長の三男です。長年の懸案だった市内交通の南北分断を解消し、父の残した課題を見事に解決したのです。

そして利勝氏はもうひとつ仕事を成し遂げます。平成23(2011)年4月29日。旧手柄山駅は周辺施設と一体の改修工事を経て、手柄山交流ステーションとしてリニューアルオープンしました。旧手柄山駅でのイベントで封印が説かれ、約35年ぶりに車両が日の当たる場所に出されました。往年の輝きを残したモノレール2両は当時の駅ホームだった場所に据え置かれ、実際に車中に入れる展示物となりました。高度経済成長期の中で造られたものの、稚拙な計画で出鼻をくじかれ、様々な不幸にあえぎ、市民からの冷たい視線に耐え、巨額の赤字に失敗の烙印を押されて市政から消された姫路モノレールがここに復権したのです。

手柄山交流ステーション(旧モノレール手柄山駅)で展示されるモノレール車両は、車内も見学できるほか、ロッキードモノレールの特徴とも言える台車周りも様子をうかがう事ができる。 photo/mjws.org

姫路モノレールの失敗で残ったものは廃線施設だけではありませんでした。後に他の地方公共団体の役員や公共交通機関の担当者などが視察に訪れ、失敗の要因を詳細に分析し、自分たちの建設する新交通機関に生かそうと学びました。姫路モノレールで得られた経験は全国の大都市で今も走るモノレール路線や新交通システム経営の礎となりました。

ロッキードモノレール等としのぎを削ったアルウェーグ式モノレールは、その後日本標準規格のモノレールへ制定され、モノレールシステムの主流となった。 photo/mjws.org

一方、姫路市内に残るモノレールの跡形は、今後数年以内に全て撤去できると発表がありました。唯一の途中駅である大将軍駅を抱く先進的な構造だった高尾アパートは近年解体され、更地になりました。
消える跡形、残る礎。今は小高い丘の墓地で眠る石見元秀さんは、どんな思いで息子の奮闘とこの顛末を眺めているのでしょうか。

文章/湊月 寛喜